予防線

予防線が見えなくなるまでつづける

散文・雑記・チラ裏

臆病な自尊心がむくむくと起き上がるのを実感する。

なんといいますかもちろん一人は気楽で、やはり心を開くまでの時間は億劫で、羨望の眼差しを向けるのも嫌なものだから、「相手は自分が出来なかった体験をしているのだな」と少しでも感じると内向きの重力といいますか言葉が重くなるのを感じる。

一言に高専コンプレックスとまとめているが、結局のところこれは普通高校に行っていれば俺はどう変わっていたのかという、1~3年のころに陥りがちな普遍的な問題に還るのではないか。4~5年の頃はそんなこと思うのはもうダサいって言うか飽きたはwwとよく思っていたが、まさか立ち返ることになるとは思いもしなかった。俺は4年間、もしくはそれ以上の年月があったらこうなれたのか。いやなれない(反語)

 

身の丈にあったところに行けてない(イケてない)感覚と圧倒的な経験値不足(人生的)。お前ら暇だったんだなという糞みたいな皮肉が通ればどれだけ楽か(勉強してるよきっと)。サークルの飲み会経験値がこんなに効いてくると思いもしないもんだから困る。不思議なもので、プログラムができれば優位な場所と、人と仲良くなれれて声が大きくて日経を読んでいれば優位な場所があるらしい。前者のほうがよほど分かりやすい。言い換えれば上流と現場の差ってそこだろう。あと多分後者と前者は結構同じ人。

結局のところ一歩引いてしまうこの姿勢が問題なわけである。俯瞰したがりのこの性格が問題なわけである。幸福は一人での内面の豊かさにあると思い込んでいるものだから一匹狼と揶揄される。選んだぼっちなら辛いことはないし。

 

Facebookでこう、疲れて本当に休学したような、結果としてみなさんの支えに救われたような近況を報告がどこか羨ましい。これこそ不謹慎すけどこういうこと言うときは大体特定の個人を表してますから。

 

 

幸福は内面にーと言いながら攻撃的、排他的な謎。朗らかに(朗らかじゃない名前ですが)過ごしたいものです。